国家について考える

国家の生成と発展と崩壊について考えます

マオリ族によるモリオリ族の虐殺

ニューギニアマオリ族によるモリオリ族の虐殺の逸話は興味深い。著者は二つの部族が同じ祖先から出発して「まったく異なる社会を形成した」(ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』上巻、八二ページ)ことに注目して、その環境的な影響について考察している。

 

 

The brutal outcome of this collision between the Moriori and the Maori could have been easily predicted. The Moriori were a small, isolated population of hunter-gatherers, equipped with only the simplest technology and weapons, entirely inexperienced at war, and lacking strong leadership or organization. The Maori invaders (from New Zealand’s North Island) came from a dense population of farmers chronically engaged in ferocious wars, equipped with more-advanced technology and weapons, and operating under strong leadership. Of course, when the two groups finally came into contact, it was the Maori who slaughtered the Moriori, not vice versa.

このモリオリとマオリの衝突の残酷な結末は、容易に予想できたはずだ。モリオリ族は狩猟採集民の小さな孤立した集団で、最も簡単な技術と武器しか持たず、戦争の経験もなく、強いリーダーシップも組織も持っていなかった。一方、ニュージーランド北島マオリ族は、慢性的に激しい戦争をしている農民が密集しており、より高度な技術と武器を持ち、強力なリーダーシップのもとに活動していた。もちろん、マオリ族とモリ族が接触したとき、マオリ族がモリ族を殺したのであって、モリオリ族がマオリ族を殺したのではない。

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博士論文要旨

論文題目:ニュージーランド、チャタム諸島における民族の生成 ―原住民土地法廷と、ワイタンギ審判所をめぐる先住民モリオリとンガティ・ムトゥンガ族の紛争を手がかりに―
著者:前田 建一郎 (MAEDA, Kenichiro)

研究・教育・社会活動 - 一橋大学大学院社会学研究科・社会学部

 次に第三章では、1870年にチャタム島で開かれた原住民土地法廷の裁判記録を用いて、土地に対する所有者を確定するという手続きを通じて、法的な主体として部族が立ち現れていった過程を記述する。原住民土地法廷とは、マオリの慣習に基づいて、土地の適切な所有者が誰なのか特定するために、1865年に設けられた法的機関である。いまだかつて、個人所有という概念も土地の境界線も存在せず、部族による共同所有が原則だった所に、土地の個人所有という未聞の権利のあり方がふってわいたことで、チャタム諸島では「原住民」であることが新たな意味を帯びるようになり、1870年に原住民土地法廷が開廷した頃には、土地の権益をめぐって先住民モリオリと、1830年代にニュージーランド本島から移住してきたンガティ・ムトゥンガ族との間に、激しい対立が生じていた。この原住民土地法廷での両者の対立の最大の争点は、ンガティ・ムトゥンガ族によるモリオリの「征服」に関する慣習の違いだった。
 1835年に、ニュージーランド北島のタラナキ地方で部族間抗争に敗れて土地を追われた、およそ900人のマオリが新天地を求めて、一斉にチャタム諸島に移住してきた。このンガティ・ムトゥンガという部族を中心とするマオリの新しい移住者と、元々の住民であるモリオリとの間にはまもなく争いが起こり、戦う術を知らなかったモリオリは、ンガティ・ムトゥンガによって無抵抗のままに征服され、当時1600人居たとされるモリオリの人口のうち300人が虐殺された。生き残ったモリオリは、ンガティ・ムトゥンガの奴隷として数十年にわたって従属させられ、ようやく奴隷解放が達成された1862年頃にはモリオリの人口はわずか101人にまで激減したという。
 だがマオリの近代の歴史を見れば、武力を伴う征服は正当な行為であり、土地を支配する際に最も強力な方法だった。ンガティ・ムトゥンガは適切な慣習的手続きを経て、モリオリを征服したことによって、チャタム島の土地を手に入れたということを、原住民土地法廷で主張したのである。
 一方の被征服者であるモリオリの主張によれば、マオリの慣習が武力を肯定していたの対して、モリオリの祖先ヌヌクが定めた慣習では戦い、特に死に至らしめる戦いが禁止されていたという。意外にも1870年の土地法廷でモリオリは、征服に際して「無抵抗」だった事実を強調したのだった。
 モリオリは自分たちから攻撃をしかけることはなかったし、ンガティ・ムトゥンガが武力を用いて仲間を殺害した時にもなお無抵抗を貫いた。征服に際してモリオリが一切抵抗しなかった以上、ンガティ・ムトゥンガにはモリオリを殺す理由など本来なかったはずである。それにも関わらず、ンガティ・ムトゥンガはモリオリを容赦なく殺戮した。モリオリの慣習の観点からすれば、復讐の必要もないのに血が流されたことで、ンガティ・ムトゥンガの土地に対する権利を申し立てる資格は失われたことになる。被征服者であったモリオリは、征服に際して必要の無い血が流されたという、ンガティ・ムトゥンガの落ち度を突く戦略をとったのである。
 ところがモリオリは無抵抗を貫くということで、祖先の慣習を守ったという論理は、法廷では受け入れられることはなかった。判決では、ンガティ・ムトゥンガに対してチャタム諸島の土地のうち97%の所有権が認められ、モリオリにはわずか3%の土地しか与えられないという、モリオリに対して圧倒的に不利な裁定が下されたのである。征服を試みたンガティ・ムトゥンガに対して、モリオリが一切抵抗しなかったという証言は、むしろ征服を受け入れたことの何よりの証拠だと、法廷の判事に見なされた。さらにモリオリが長期間奴隷におとしめられたという供述は、ンガティ・ムトゥンガが誰にも邪魔されることなく占有を継続し、1840年以降に引き続き征服時の状況を維持してきた、ということの絶好の証拠になったのである。
 つまりモリオリは皮肉にも、敵対しているはずのンガティ・ムトゥンガの主張を裏付けるような証言をしてしまったことになる。もちろん土地法廷で、モリオリの証人たちが実際に意図していたのは、ンガティ・ムトゥンガによる大量殺戮や十数年におよぶ奴隷化などの、モリオリが被ってきた数々の不正義がいかに根深いかを示すことにあった。だが判事の目には、そうした供述はンガティ・ムトゥンガによる征服が、強固に持続していることを示す証言としかうつらなかった。
 ここにモリオリが無力な犠牲者であることを主張すればするほど、ンガティ・ムトゥンガによる征服の確からしさをますます強化するという、奇妙な論理の一致が成立してしまった。両者は土地の所有権をめぐる利害関係では真っ向から反目しながらも、表象の上では、ンガティ・ムトゥンガはいかに残虐にモリオリを征服したかを主張し、モリオリは哀れな迫害を受けてきたかを主張することで、マオリによるモリオリの征服という整合性のとれたひとつの物語を、一体となってつむぎあげたのだった。

証拠としての人類学的資料と、ワイタンギ審判所
ニュージーランド、チャタム諸島における慣習漁業権をめぐる裁判記録を手がかりに