国家について考える

国家の生成と発展と崩壊について考えます

フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』

■J・G・フィヒテドイツ国民に告ぐ』については次の論文に依拠する。

 フィヒテの教育論(Ⅰ) -『ドイツ国民に告ぐ』
小澤, 幸夫, Ozawa, Yukio 国際経営論集 39 235-248, 2010-03-31

 

まずこの講演の概要について

1.緒論 と全体の概観
2,新 しい教育一般の本質について
3.新 しい教育に関する説明の続き
4. ドイツ人 とその他のゲルマン民族 との主な相違
5.前述の相違による結果
6.歴史における ドイツ的特性の解明
7. ドイツ民族の根源性 と気質のさらに深い理解
8.本当の意味での民族 とは何か、祖国愛 とは何か
9. ドイツ人の新 しい国民教育は現に存在するどのような点に結びつけられねばならないか
10. ドイツ国民教育のさらに詳 しい規定
ll.この教育案は誰の責任で実施 されるべきか
12.主要な目的を達成するまで我々がとるべき手段
13.前回の考察の続き
14.結び

このようにこの書物は教育論を展開する書物であることに注意しよう。その上でフィヒテナショナリズムについて次のように主張を展開する。

 

一)ドイツ語について

 この著作においてフィヒテは言語それもドイツ語という言語を軸にナショナリズムの議論を展開する。フィヒテは「生きた言語を持った民族」、すなわちドイツ人と「死んだ言語を持った民族、すなわちその他のゲルマン系の民族を区別し、「生きた言語を持った民族は、あらゆることがらにおいて実に勤勉かっ真剣であるばかりでなく、つねに努力家であるが、反対に、死んだ言語を持った民族は、彼らの幸運な自然の本性に任せて努力しようとしない」(Fichtes Werke. Hrsg. von Immanuel Hermann Fichte, Bd.VII, Berlin: Walter de Gruyter 1971 , S.327.)と主張する。ドイツの理念はドイツ語を話す国民ということにあり、たんなる国籍の問題ではない。「生きた言語を持った国民は、偉大な国民大衆 として陶冶される可能性を持っている。 したがって、このような国民の教育にあたる人々は、そのために、自分たちの発見 した教育方法を国民に試行 し、国民を教育 しようとしている。これに対 し、死んだ言語を持った国民においては、教養ある階層は、国民大衆から逃避 し、国民大衆を自分たちの計画を遂行するための単なる道具以上のものとは考えていない」(同)。

 

二)ドイツ人とはドイツ語を話す人に限らない。精神の自由を信じる人はドイツ人とみなされる。

 

「創造的で新 しいものを産み出 しなが ら自ら生きる人々、あるいはこうした生にはあずかれなくとも、少なくとも無価値なものを断固として捨て去 り、どこかで根源的生命の流れが自分をとらえるかどうかに注意を払っている人々、あるいはそこまでいかないとしても、少なくとも自由を予感 し、自由を憎んだり恐れたりせずに愛する人々すべてこのような人々は根源的人間であり、民族 として観 られるならば原民族 (Urvolk)、民族そのものであ り、 ドイツ人であ ります」。「精神性 とこの精神の自由を信じ、この精神性の自由による無限の形成を欲する者は、どこで生まれ、どんな国語を話そ うとも、我々の種族であ り、我々に属してお り、我々に加わることで しょう」(同署、374ページ)。